食べても身に付かないのは

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私は、身長180センチ、体重58キロのジャニーズ体型です。ところが、今まで誰からもジャニーズ体型だと言ってもらったことはありません。不思議で仕方がないことです。

要するに骨川筋右衛門である私は、食べてもなかなか太らない体質なのです。昔、ある方から「食べたものが身に付かないのは、人の言うことを素直に聞かないからだ」と言われたこともあります。たしかに私は、聞いたことを素直に実行するほうではないかもしれません。せめて標準的な体型になりたいと思いつつも、しんどい思いをしてまで太りたいとは思えず、何度か挑戦したデブエットはいずれも失敗に終わりました。


そんな中、かしもの・かりものの勉強の一環で、梅谷四郎兵衛先生の「身のうちの守護」という覚書を読んでいました。くもよみのみこと様のご守護の話の中に、次のような一節がありました。

 

この神様の御守護なかったら、食べたものは下へ下がらず、腸満のようなもので、取り込む一方と、出すことをようせず困らねばならん。

その他、上げ下し、食べたものが身に付かずしてそのまま出てしまいます。

『再版 梅谷文書』p.256

 

これを読んで、聞いたことを素直に実行しないということよりも、くもよみのみこと様のお心に叶う心づかいができていないから、食べたものが身に付かないのかと考えました。

振り返ってみると、普段の私は、尊敬している人の言うことは何の疑いも持たず受け入れたり、意味がないと思ったことは徹底的に全否定したり……。人の言動に対して白か黒かをはっきりさせる、極端な受け取り方をしていることに気づきました。

私は、何かにつけて「そんなことしても意味ない」と言ったり、逆に「絶対こうしたほうがいい」と思ったりするのですが、そこで思考を止めてはいけない。どのあたりが意味ないのか、良いと思ったやり方にリスクはないかなど、突き詰めて考えることが大切なのでしょう。

考えてみれば、飲み食い出入りに関わる体の器官は、入ってくるものを選ぶことはできません。水分がほしいのにスナック菓子が入ってきたり、胃腸が弱っているのに油っこいものが流れてきたりしても、それを黙って受け入れ、なんとか処理しているのです。こうした臓器の働きから思案すれば、まずは人の言っていること、起こってくることを受け入れることが大切ではないか。そして、それをしっかりと噛み分けて、いいところ、課題を考えていく姿勢を身につけることが、くもよみのみこと様のお心に叶うのではないかと思いました。

 

食べたものが身に付く御守護を頂けるように、起こってくることをまずは受け入れ、噛み分ける自分を目指したいと思います。

 

米袋を運んで

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2年前のある日、30キロの米袋を運んでいたときのことです。華奢で非力な私ですが、全身の力を総動員してなんとか運び終えました。ほっとしたところで改めて米袋を見ると、少し位置がずれているのが気になりました。微調整をしようと米袋を持ち上げたところ、右手の手首から「ピキッ」という嫌な音が聞こえたのです。

 

病院に行くと、骨に以上はないものの、聞いたこともない長い名前の筋が損傷している、とのことでした。それからというもの、手首に包帯をぐるぐる巻きにして過ごしていた私は、会う人会う人から「どうしたの?」と聞かれる日々。何度も何度も同じ説明に明け暮れたことを今も思い出します。

 

特に支障があったのは、掃除のときでした。神殿掃除の時間に布巾で乾拭きをする際、右手で踏ん張ることができず、うまく拭けなかったのです。それまではただ、「微調整なんてせずにあのまま置いておけばよかったのに」と落ち込んでいただけだったのが、そこで初めて、「ああ、今までずっと、つっぱりの御守護を頂いていたんだ」と気づきました。

 

月よみのみこと様は、人間の身の内では男一の道具、骨つっぱり、世界では作物や草木、地上に自ら立っているものの御守護を下さいます。

 

私が今ここに立っていること、家が立っていること、木や草が立っていること。これらは普段なんとも思わないようなことですが、すべて、月よみのみこと様の御守護を頂いているのです。

 

自分がケガをしなければ、そんなことを考えもしなかったでしょう。神様は、私の手首を通して、かしもの・かりものの理の深い世界の一端を、見せてくださいました。おていれを頂くのも素晴らしいことですが、普段からかしもの・かりものの理を学び、生活の中で御守護を感じられるように努めたいと思います。

研究ノート:原典を読む前に

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私は最近、原典を読む難しさに直面しています。さっと読み飛ばしてしまえばなんてことはないのですが、きちんと理解しようと思うとなかなか難しいのです。その原因は一体何か。

 

そればズバリ、原典を読むための下準備を怠っている、ということです。予備知識がなくても読むことのできるありがたい書物だ、という考えを戒められているのではないかと思いました。この稿では「おふでさき」をもとに、この点を考えていきたいと思います。

 

そもそも、下準備は必要なのかどうか、という疑問があります。これについては、原典の制約について考えることで自ずと明らかになると思います。おふでさきを読む際にあると考えられるいくつかの制約を、①時間 ②空間 ③内容 の3つに分けてみていきましょう。あくまで便宜上のものなので、かぶっている要素もありますが、ご了承のほど。

 

  • 時間の制約

一言でいえば、時代が違うということです。同じ日本語とはいえ、現代一般的に使われている言葉と違う用法の語や、今は使われていない単語があります。当時普通に使われていた言葉を知らなければ、意味を取り違える可能性が大いにあります。

 

  • 空間の制約

これは、場所のことです。大和国山辺郡という場所で書かれているので、方言や独特の言い回しが使われています。また、日本語で書かれていますから、他の言語圏では、そのままでは通じません。その際に翻訳が必要になりますが、翻訳のためには解釈が必要になります。

 

  • 内容の制約

一般に、おふでさきの内容は普遍的だといわれます。確かに、おふでさきに書かれた言葉に込められた真理は普遍的ですが、その文字面がそのまま普遍的かといわれれば、簡単にうなずくことはできません。なぜなら、「読めばすぐに内容が理解できる」というものではないからです。

 

こうした制約がある以上、おふでさきを読むために下準備が必要なことは明らかです。

 

この中で①と②に関しては稿を改めることにして、ここでは③に絞って話を進めたいと思います。案外、見過ごされがちな点だからです。

 

私が内容の制約について考え出したきっかけは、次の一連のおうたです。

 

このよふの水のもとなる事をばな

まだこれまでわゆうた事なし(十二164)

このたびハほんしんぢつの水の事

どんなはなしをするやしれんで(十二165)

この元をたしかにゆうてかゝるから

せかいなみなる事でゆハれん (十二166)

 

 

これまで言ったことのない「水のもとなる事」「ほんしんぢつの水の事」を、このたび話してやろうと仰せられています。しかし、おうたを読みすすめると、めいめいの心を現して胸の掃除をする、という話題に移っていて、水の話はありません。私は長らく、この点が引っかかっていました。

 

しかし数年前、おふでさき研究の大家である芹澤茂先生の論文にふれて、あることを知りました。それは、おふでさきには省略があるということです。当時の信者たちがすでに了解している事実については詳しく書かれず、キーワードの提示にとどまっている箇所が多く見られるのです。

 

上述の第十二号のおうたも、その例に漏れません。「水のもとなる事」「ほんしんぢつの水の事」は、すでに教えられているので省略されている。それは、かしもの・かりものの話の冒頭にある、「くにとこたちのみこと様は、天では月様と現れ、人間身の内では目、うるおい、世界では水の守護をなしくだされる」というお話です。水は人間のものではなく、神様の御守護に満ちている。人体の目や水気も、同じくにとこたちのみこと様からのかりものである、ということです。こうした話は当時の信者間で頻繁に説かれ、よく了解されていたのでしょう。

 

このような目でおふでさきを読んでいくと、省略されたとみられる箇所が無数に見つかることが分かります。私の考える「内容の制約」とは、予備知識がないまま読む難しさです。しかし逆に言えば、拝読の下準備をすることで、おふでさきの世界が開けてくるということです。

 

歯磨き

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ある日、私は職場で昼食をとり、歯を磨いていると、先輩が現れ、私を見て興奮気味に言いました。「すごい! 歯磨きしてる! かりもの大事にしてるねえ!」

 

私はあっけに取られました。「そうなんです!」と言えたらかっこいいのですが、特に何も考えずに毎日歯を磨いていたので、「かりものの身上を大事にしている」なんて発想はなかったのです。

 

しかし、そのあとよく考えてみると、歯磨きは身上の〝修理〟といえるのではないか、と思いました。修理とは普通、壊れたものを修繕する意味で使われることが多い言葉ですが、農事用語でいう修理は、雑草を抜いたり、間引きをしたりすることをいうそうです。

神様から一時的にお預かりしている体をしっかり使わせていただけるように歯を磨く、と考えると、それがとても意義深いものに感じられてきました。

 

他にも、散髪や爪切り、洗面やお風呂など、私達は日常生活の中で、知らずしらずのうちに体の修理をしています。親神様の御守護によって生かされていることは間違いありませんが、こうした修理は人間が生きていくのに必要なことばかりで、怠ると大変なことになってしまいます。間引きやこまめな草引きによっておいしい作物がとれるように、親神様の御守護に加えて、生活の中で身上の修理に努めることが、陽気ぐらし世界に向けて必要なことなのです。

 

おふでさきに、

 

だん/\と心いさんてくるならバ せかいよのなかところはんじよ (一9)

 

とあります。人間の心が勇んでくると、自然が豊かになり、社会も繁栄するのだとおっしゃいます。御守護があるから放っておいても大丈夫なのだ、ということではなく、御守護に加えて私たちが勇んで修理に努めることが、人間生活の実りをもたらすのです。

名前を呼んで

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「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」

私たちは誰かに会ったとき、あいさつをします。「近頃の若者はあいさつもできない」という声を聞くこともありますが、人と人との関わりがあいさつから始まることは、あまり異論のないところだと思います。

 

私の周りには、あいさつに加えて名前を呼んでくれる人がいます。「○○さん、おはようございます」と言われると、とてもうれしい気持ちになります。ただあいさつされるだけで終わるよりも、自分という個人を認識して声をかけてくれていることが、はっきりと感じられるからでしょう。

 

自分がうれしいことは、人もうれしいはず。実行しようとしましたが、これがなかなか難しい。なんだかとっても恥ずかしいのです。

 

しかし、教祖伝をひもといてみると、おやさまは先人の先生方のお名前をよく呼ばれていることが分かります。『稿本天理教教祖伝逸話篇』からいくつか引いてみましょう。

 

「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか」

「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな……」

「佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう」

 

挙げればキリがありませんが、おやさまはこのように、おやしきにつながる方々の名前を親しくお呼びになっています。

 

私が好きなエピソードを紹介しましょう。妻の身上をたすけられて入信した増野正兵衞先生は、明治17年4月、初めておぢばへ帰ります。その日は、ちょうどおやさまが奈良の監獄から帰られた日でした。

 

教祖はお帰りになると、お居間にお坐りになり、お側の方がみりんを差し上げると、その御杯をお口に持って行かれ一寸おあがりになり、たくさん詰めかけている信者の人々をずーっと御覧になりました。

 増野ははじめてのことで、一番うしろで教祖を拝んでいたのであります。その時教祖は、増野を御覧になり、お側の人に名前を聞かれたのでしょうか、

「神戸の増野さん、一寸ここへおいで」

と仰せになられたそうです。

 増野は恐る恐る前へ進み出ますと、教祖はみりんの杯を彼の方へ差し出され、

「これ、あんたにあげる」

と仰せられ、その後で、

「よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」

と仰せられたといいます。彼の感激は、どんなでございましたでしょう。(高野友治『先人素描』p.188)

 

末席で拝んでいた先生は、多くの信者がいる中で「神戸の増野さん」と呼ばれて驚いたことでしょう。

 

しかし、これは増野先生に限った話ではないと思うのです。おやさまは、私たち一人ひとりのことをよくお分かりになっていて、常に親しく名前を呼んで、指図してくださっているのだと思います。私は教祖殿に額づくと、いつも名前を呼んでくださる気がしてなりません。

 

おやさまの親心をわが心として通らせてもらうためにも、恥ずかしさに負けず、名前を呼んであいさつできる自分を目指したいと思います。

 

絶賛された卵焼き

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妻から料理の手ほどきを受けている私。最近は卵焼きにはまっていて、朝食やお弁当、そして夜のおつまみにと、巻きに巻きまくっています。

 

ある日、おつまみに卵焼きを作って二人で食べていると、妻が口を開きました。
「水加減がいい。油の量もいい。焼き加減、味付けもいい。素晴らしい卵焼きだね」
絶賛とはこのことです。私はうれしくなりました。
「たくさん練習した甲斐があった。もっとがんばろう」
と内心ほくそ笑む私。人生ではときどき、思いがけず褒められる体験があるものです。

 

しかし次の瞬間、私はあることを思い出しました。

 

それは、おやさまに直接導かれた先人の一人、山本利三郎先生の逸話です。お道が外部からさまざまな干渉を受けていた明治10年頃、先生は他宗教との論争の場で見事な答弁をして、相手を傾聴させたということがありました。得意満面でおやしきへ帰り、おやさまにご報告します。「実に愉快でした。先方もよく納得していました」

 

しかし、それを聞いたおやさまは次の一言。
「神が言わしてやったのや。自分で言うたと思いますか」

 

卵焼きは一例ですが、私は、人前でうまく話せたとき、上手に物事が運んだときなど、得意満面になることがほとんどです。「時間をかけたからできた」「よく調べたから当然だ」などと考え、悦にひたってしまうのです。

 

そうした姿を戒められる「自分で言うたと思いますか」というお言葉には、2つの意味があるのではないかと考えます。

 

1つは、いざというとき、親神様が、私たちの持っている力以上のものを発揮させてくださること。自分ではよく分からないけど、うまく言葉が出てきた、うまくできたということは、日常生活はもとより、スポーツや芸術の分野でもよく聞く話です。皆さんも経験がおありかと思います。

 

もう1つは、身の内に親神様が常に入り込んでくださり、守護してくださっているということです。くにとこたちのみこと様以下、十柱の神様のお働きがなければ、卵焼きを作ることはできないし、言葉を発することもできません。

 

人から褒められるとすぐに舞い上がってしまう私ですが、かしもの・かりものの理を心に治める努力を重ね、「自分ですること、したことはなにもない。すべて親神様が力を貸してくださったのだ」と謙虚に通ることができるよう、精進したいと思います。

 

水と神とは同じこと?

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私が以前つとめていた部署の給湯室に、張り紙がされています。「水と神とは同じこと 水を大切に」。かわいいしずくのイラストと共に書かれた筆文字が全体の調和を生み出していて、なかなかのデザイン性です。しかし私は、その紙を初めて見たときから、微妙な違和感がありました。このほど、少し真剣に考えてみたので、それをつづりたいと思います。

「水と神とは同じこと」とは、みかぐらうたの五下り目に出てくるフレーズです。原文をみてみると、

みづとかみとはおなじこと こゝろのよごれをあらひきる (五下り目 三ツ)

とあります。ここでの「水」は、たとえとして用いられていることは明らかです。では、何をたとえているのか。

こんなことがありました。私が家で洗車をしていると、洗剤とブラシではなかなか取れない頑固な汚れが残っています。どれだけこすっても取れないので、「ブラシは古いし、洗剤は安物だし、新しいの買わないとなあ」と考えていました。しかし、私は何を思ったのか、あえて洗剤を使わず、水を流しながらブラシでこすってみようと思いついた。早速やってみると、あれだけ頑固だった汚れはまたたく間に落ちていきました。「くにとこたちのみこと様!!!」。思わず叫ばずにはいられませんでした。

水の洗浄力はすごいのです。実は、洗うものが傷まないように注意が必要なくらいなのです。

「みづとかみとはおなじこと こゝろのよごれをあらひきる」。水のような洗浄力で、人間の心を洗いきるとおっしゃいます。どんな心を洗うかというと、

よくのないものなけれども かみのまへにハよくはない (同 四ツ)
むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい (同 六ツ)

といわれるように、「よく」や「むごいこゝろ」といったものです。ここでの「水」は、特にその洗う力に焦点を当てたたとえだということができそうです。

ひるがえって冒頭の張り紙を見ると、「水を大切に」とも書いています。水の洗浄力にたとえたお歌と共に、水を節約して使うことについても書かれているため、私は違和感を抱いたのでした。原典を引用することで、かえって意図がずれてしまっていたのです。

しかしながら、これを書いた人には言いたかったことがあるはずです。すなわち、単に「水を大切に使おう」と言いたかったというよりも、水の持っている力を十分に活かして、ここ(給湯室)で洗い物をしてほしい。また、飲み物を作るときも、水の御守護に感謝して作ってほしい。そうした思いが込められているのではないか、と考えました。

「くにとこたちのみこと様、ありがとうございます。おかげをもって、生きるために必要不可欠な水分を摂ることができます。汚れた食器も洗うことができます。いつも私の心の汚れを洗ってくださって、ありがとうございます」。その都度その都度、このように感じながら給湯室で作業をすれば、親神様はどんなにかお喜びくださることでしょう。当たり前すぎてなかなか気付きにくい尊い御守護に、気付かせていただいた出来事でした。