きゅうりの収穫

 

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最近、家庭菜園を始めました。荒れた土地を父と耕し、妻と苗を買って植え付け、日々のお世話は主に妹が、というように、家族総出で育てます。

 

そして時は流れ、収穫の季節に。

ある日の朝、きゅうりが見事に成っているのを見つけました。恥ずかしながらスーパーで売っている姿しか見たことがなかった私は、感慨深く、妻に語りかけました。

 

「いやー。こんな俺でもきゅうりを作ることができた。嬉しいわ」。

 

「そうだね、よかったね」とでも言ってくれると思っていたのですが、妻は少し怪訝な顔でこう言ったのです。

 

「そのきゅうり、あなたが作ったの?」。

 

私ははっとしました。

何度も何度も「かしもの・かりもの」の話を聞かせていただいているのにもかかわらず、何を勘違いしていたのか……。そう、このきゅうりは私が”自分で”作ったものではないのです。

 

宮森与三郎先生のお話に、次のような一節があります。

 

自分が働いて、おれはこれだけのものをつくった、と思うているのは、みな天の理に背いているのや。種を蒔いたら、芽を切ってくださるのも神様。上へ成長さしてくださるのも、花を咲かし実をのらしてくださるのも、みな神様のご守護である。人間は、ただ修理こやしというて、お世話さしてもらうだけや。いくら人間がしようとしても、身上が悪かったら修理さしてもらうことはできない。

 

そやから、いっさい神様のご守護を受けなければならぬ。おれは柿一つこしらえた。おれはリンゴ一つこしらえた。おれは米や麦をつくった。おれは大根一本こさえたというて、つくった人は一人もいない。

 

そやから、神様のご守護によってこしらえさしてもろうた、と思うのと、自分が働いて自分がつくったというのとは、たいへんに間違ってくる。(中略)

 

人間は仮の親や。その上に真実の親様がおいでになるのや。人間は、ただ真実の親様のご守護をいただいて、お世話さしてもらうだけや。この理がわかれば、「かりもの」ということがわかってくる。

 

道友社『本部員講話集 上』 宮森与三郎「だめの教」(表記は筆者)

 

農家であった宮森先生のお話には、実感が伴っていて、説得力があります。神様のお働きと人間の修理丹精が相まって、はじめて農作物が出来るのです。

 

「俺がきゅうりを作った」。失言からではありますが、「かりものの理が分かる」という領域に、一歩近づかせていただいた出来事でした。