透明のビニール傘

 

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ある雨の日のこと。

私は、傘をさして帰途についていました。家の近くの細い路地を進んでいると、向こうからいたいけな少女が歩いてきます。高校生くらいでしょうか。彼女はずぶ濡れになり、何か悟りを開いたような、神々しい顔つきで歩いていました。雨から逃れることをあきらめたのでしょう。

 

私は、自分の持っている傘を渡そうと思いました。透明のビニール傘だし、家も近い。しかし、まさにすれ違うその瞬間、私の脳内にさまざまな言い訳が瞬時に浮かび、そのまま通り過ぎてしまったのです。

 

家に帰った私は、ひどく後悔しました。

 

これまでに何度も、こういう場面に出くわしてきました。急な雨に備えて傘を常備している私は、いつもずぶ濡れになっている人を“見る“側にいました。そのたびに、「傘を渡してあげよう」と思うのですが、何度も何度も経験するうち、「いちいち渡していたら傘が何本あっても足りない」という結論に至り、気にしないことにしていたのです。

 

しかし、あの少女に傘を渡せなかったことへの後悔だけはなぜか拭えず、「自分の考え方は正しかったのか」と悩み、悶々とした日々を過ごしていました。

 

そんなある日、高井直吉先生のお話を読む機会がありました。

 

 

……この世のすべての物は神様よりお貸し与え下されたのである。我が物というはない。難儀しているものなれば与えてやる。……

天理教道友社編『教祖より聞きし話・高井猶吉』p.186

 

 

かしもの・かりものの話は、たとえ話です。何か伝えたいことがあって、それを理解しやすくするために、たとえ話が用いられます。おやさまは、「この世にわが物はない」ということを伝えようと、「かしもの・かりもの」の話を聞かせてくださったのではないか、と思いました。

 

このお話を読んで、傘はわが物ではないのだから、遠慮なく渡せばよかったのだと、スッと心に治まりました。そして、「わが物はない」ということを普段から意識して生活することで、ここぞというときに、困っている人に手を差し伸べることができるのだと思いました。小さなおたすけは、日常にあふれています。