人のあやまちは

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4年ほど前から、『信者の栞』を読んでいます。これは日記とともに毎日のルーティンワークになっていて、私の生活には欠かせないものになっています。

 

すでにご存じの方も多いかと思いますが、目次をあげておきましょう。

 

一 みかぐらうた

一 親神様の御守護

一 かしもの・かりもの

一 八つのほこり

一 誠真実

付 別席の誓いの言葉

 

親神様の御守護」と「かしもの・かりもの」は、もともとひとつの話をふたつに分けています。同様に、「八つのほこり」と「誠真実」も、元はひとつづきのお話です(出典は諸井政一著『正文遺韻』)。

 

この『信者の栞』を初めて読んだとき、大きな驚きがあったのです。それは、次の一文でした。

 

……罪のにくむべきを知るならば、罪をおかさせぬよう、己も罪を犯さぬように、心をはたらかし、人の過ちも、わが身にかついで通る心になり、……

 

これは、「誠真実」の中で、「にくい」というほこりについてどう思案すればいいのか示されている部分です。「人の過ちも、わが身にかついで通る」というのは、つまりこういうことでしょう。誰がどう見てもA君が悪いということに対して、「いや、俺の〇〇が悪かった。俺の責任だ。ごめん」と言う――。そんなことはそれまでの人生で考えたこともありませんでした。だって、A君が悪いじゃないですか。

 

しばらくは心に治めることができず、「本当にそうなのか?」と悶々としていました。しかし、この言葉を体現するかのような人に、私は出会うのです。

 

その人は、私が体調をくずすと、「私の〇〇な心遣いが悪かった。申し訳ない」と謝ってきたり、明らかに私の不注意が原因なのに「私が確認不足だった。ごめんなさい」と言ったり。自分のミスすら人のせいにして生きてきた私にとって、衝撃の連続でした。のちにその人と結婚することになるのですが、その話は別の機会に……。

 

他人の失敗を「自分とは関係ない」と切り離さず、自分のこととして引き受ける。自分に落ち度がなかったかを考えて、仮に落ち度がなくても、「私の気づかないところで心遣いに問題があったかもしれない」「前生のいんねんが現れているのかもしれない」と思案する。天理教の信仰の値打ちは、このように「反省ができる」という点にあるのだと、切に思います。