「何でも喜ばせてもらいなさい」

f:id:toshiniois:20201223135448j:plain

 

天理教では、「喜ばせてもらいなさい」とよく言われます。とくに、良くないことが起こったときや、自分の意志に反する選択を迫られたときに、親など目上の方から言われることが多いようです。

 

では、例えば病気やケガをしたとき、「喜ばせてもらいなさい」と言われて、素直に喜べるでしょうか。もちろん、世にはとても心がきれいで、それができる人もいるでしょう。しかし、私など到底無理で、「喜べないことを無理に喜ぶなんてナンセンス」とずっと思っていました(今も基本的には変わっていませんが……)。

 

あるとき、教祖伝編纂の第一人者・中山慶一先生の講話に出合いました。その中に、次のような算式が載っていたのです。

 

与え/欲望=喜び

 

つまり、分子である「与え」が少なかったとしても、分母である「欲望」が小さければ、喜びは大きくなるのです。

 

例えば、10万円欲しいと思っている人がいたとします。そこで誰かから5万円をもらっても、満足するのは難しいでしょう。対して、1万円欲しいと思っていたところに5万円もらったら、飛び上がって喜ぶでしょう。世に貧乏だけど幸せな家族がいたり、大金持ちでも心が満たされない人がいたりするのは、そういったところにも要因があるのではないでしょうか。つまり、与えられた物事に喜べない現状というのは、それを上回る〝求める心〟に原因があるのです。

 

では、どうすれば欲を抑えることができるのでしょうか。

 

 

 これを教祖ひながたの上から思案致しますと、無理に欲を抑えるという不自然な方法ではなく、それよりは積極的に出せ、そうしたら知らず知らずの間に欲が薄れて行くという道をお示し頂いておるように思うのであります。出すと言っても、決して物や金だけではありません。与える心、出す心遣いであります。どうすればあの人は満足してくれるだろうか、どうすればあの人は助かるだろうか、どうすればあの人は喜ぶだろうか、こういう心遣いが出す心遣いでありまして、物も金も心も真実も、あらゆるものを出す努力を続けて行くところに、漸次欲が薄れて行くという事をお教え下さるために、教祖はまず出すところから道をお始め頂いておるのではなかろうかと私は悟らせて頂いているのであります。

中山慶一「御伝講話」『みちのとも』昭和34年3月号

 

 

おやさまは、とにかく「与える心、出す心遣い」で終始お通りになったといえるでしょう。物を施されたのはもちろん、人々に真実の心、喜びの心を与えられました。「よくにきりないどろみずや こゝろすみきれごくらくや」(十下り目 四ツ)とお歌いくださる境地を、自ら先頭切って歩まれたのです。

 

ひるがえって自分の心を振り返ると、頭では分かっていてもなかなか実行しにくいというのが現状……。人生には素直に喜べないことがたくさんあるのです。しかし、そうした難しい局面でどのように考えるのが適切なのか、私たちは教えられています。おやさまのように「与える心、出す心遣い」で日々を過ごすことで、ここぞという場面で自然と喜びがあふれてくるのでしょう。やっぱり、毎日の生活が大事ですね。