研究ノート:原典を読む前に

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私は最近、原典を読む難しさに直面しています。さっと読み飛ばしてしまえばなんてことはないのですが、きちんと理解しようと思うとなかなか難しいのです。その原因は一体何か。

 

そればズバリ、原典を読むための下準備を怠っている、ということです。予備知識がなくても読むことのできるありがたい書物だ、という考えを戒められているのではないかと思いました。この稿では「おふでさき」をもとに、この点を考えていきたいと思います。

 

そもそも、下準備は必要なのかどうか、という疑問があります。これについては、原典の制約について考えることで自ずと明らかになると思います。おふでさきを読む際にあると考えられるいくつかの制約を、①時間 ②空間 ③内容 の3つに分けてみていきましょう。あくまで便宜上のものなので、かぶっている要素もありますが、ご了承のほど。

 

  • 時間の制約

一言でいえば、時代が違うということです。同じ日本語とはいえ、現代一般的に使われている言葉と違う用法の語や、今は使われていない単語があります。当時普通に使われていた言葉を知らなければ、意味を取り違える可能性が大いにあります。

 

  • 空間の制約

これは、場所のことです。大和国山辺郡という場所で書かれているので、方言や独特の言い回しが使われています。また、日本語で書かれていますから、他の言語圏では、そのままでは通じません。その際に翻訳が必要になりますが、翻訳のためには解釈が必要になります。

 

  • 内容の制約

一般に、おふでさきの内容は普遍的だといわれます。確かに、おふでさきに書かれた言葉に込められた真理は普遍的ですが、その文字面がそのまま普遍的かといわれれば、簡単にうなずくことはできません。なぜなら、「読めばすぐに内容が理解できる」というものではないからです。

 

こうした制約がある以上、おふでさきを読むために下準備が必要なことは明らかです。

 

この中で①と②に関しては稿を改めることにして、ここでは③に絞って話を進めたいと思います。案外、見過ごされがちな点だからです。

 

私が内容の制約について考え出したきっかけは、次の一連のおうたです。

 

このよふの水のもとなる事をばな

まだこれまでわゆうた事なし(十二164)

このたびハほんしんぢつの水の事

どんなはなしをするやしれんで(十二165)

この元をたしかにゆうてかゝるから

せかいなみなる事でゆハれん (十二166)

 

 

これまで言ったことのない「水のもとなる事」「ほんしんぢつの水の事」を、このたび話してやろうと仰せられています。しかし、おうたを読みすすめると、めいめいの心を現して胸の掃除をする、という話題に移っていて、水の話はありません。私は長らく、この点が引っかかっていました。

 

しかし数年前、おふでさき研究の大家である芹澤茂先生の論文にふれて、あることを知りました。それは、おふでさきには省略があるということです。当時の信者たちがすでに了解している事実については詳しく書かれず、キーワードの提示にとどまっている箇所が多く見られるのです。

 

上述の第十二号のおうたも、その例に漏れません。「水のもとなる事」「ほんしんぢつの水の事」は、すでに教えられているので省略されている。それは、かしもの・かりものの話の冒頭にある、「くにとこたちのみこと様は、天では月様と現れ、人間身の内では目、うるおい、世界では水の守護をなしくだされる」というお話です。水は人間のものではなく、神様の御守護に満ちている。人体の目や水気も、同じくにとこたちのみこと様からのかりものである、ということです。こうした話は当時の信者間で頻繁に説かれ、よく了解されていたのでしょう。

 

このような目でおふでさきを読んでいくと、省略されたとみられる箇所が無数に見つかることが分かります。私の考える「内容の制約」とは、予備知識がないまま読む難しさです。しかし逆に言えば、拝読の下準備をすることで、おふでさきの世界が開けてくるということです。