研究ノート:おさしづの「場」

このブログは、日常生活の中に生きる教理についてつづるもので、皆さんの信仰生活に少しでも資するものを、という思いで書かせていただいています。ただ、しばらく続けてきて、普段考えていること思いつくままに書いてみたい、とも思うようになりました。はなはだ勝手なことですが、「研究ノート」というシリーズを新たに設け、私の頭の中をスケッチしてみたいと思います。

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今回は、「おさしづ」について考えてみたいと思います。お道の教えの源泉は、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」の三原典にあります。教会や布教所などでは、朝夕におふでさきを読んだり、祭典でみかぐらうたを地歌とするおつとめをつとめたり、ということはあると思いますが、「おさしづ」に触れる機会はあまりないのではないでしょうか。

 

おさしづは、おやさまが身を隠される直前の明治20年から、本席・飯降伊蔵先生が出直される同40年までに伝えられた、神様のお言葉を筆記したものです。初めのいくつかのお言葉はおやさまのお口を通してのものですが、ほとんどが本席様のお口を通して伝えられました。お話をその場で書いたものなので、聞き違いや書き落としがあるのは否定できませんが、神様のほうから積極的に「書き残すように」「しっかり用いるように」とおっしゃっているので、大切に読ませていただきたいものです。

 

おさしづのお言葉は、神様が時旬を見定めて話される「刻限話」と、人間からの伺いに対する「お指図」の、大きく2種類に分類することができます。明治40年に近づくにつれ、「刻限話」よりも「お指図」のほうが増えてきたことから、自然と「おさしづ」と呼ぶようになったようです。当時の先人の先生方は、教団の重要な決定事項から個人の身上・事情まで、さまざまなことを神様にお尋ねして、波乱の時代を通られました。ただ、「刻限話」にしても、「お指図」にしても、明確なお話でないことも多く、先生方でもはっきり理解できなかったと思われる節があります。

 

当時でも分かりにくかったものを、現代の私たちが理解できるのか。もちろん、他の2つの原典と比較して量が膨大であり、文章の難解さも半端ではありません。しかし、私はこのおさしづに、非常に大きな魅力を感じています。それは、神様と人間との直接的なやりとりの場が、そこにあるからです。

 

おふでさきは、「筆をとれ」との親神様の思召のままに、おやさまがお一人で書かれたものです。いわゆる「取次」と呼ばれる人や、基本的なお話を心に治めた人なら誰でも読めるような配慮がなされていますが、これは間接的なやりとりといえます。みかぐらうたも、おうたの中に神様と人間とのやりとりがうかがえますが、歌い、踊り、奏でる中に心が治まってくるという性質が強いものです。

 

その点、「刻限話」は、「今、ここでこの話を」と刻限を見定められた神様と、それを聞く人間という関係性が明確ですし、「お指図」には、神意を伺った特定の人とそれに答える神様という二者関係があります。つまり、明確な「場」があるのです。

 

この「場」を明らかにすることこそ、おさしづを読み解く鍵であり、おさしづを読む醍醐味でもあると思います。そのためにまず必要なことは、お言葉を受けた人間を知るということです。「刻限話」であれば、そのときのおやしきの様子はどうか、本席様や初代真柱様はどうされていたか、世間では何が起こっていたのか。「お指図」であれば、伺ったのは誰か、それはどんな人物か、何に困っていたのか。こうした背景事情を理解することで、お言葉の全体像が見えてくるのです。

 

例えば、増野正兵衞先生の場合を見てみましょう。先生は元萩藩士で、維新後は鉄道に関する仕事をしていました。言うなればエリートだったのですが、体調を崩し、神戸で商売をしているときににをいがかかります。神様は先生をおぢばに常住させようと思われていたものの、当人はさまざまな事情があってすぐには決断できず……。なので、増野先生が伺ったおさしづの中で、おぢばに移り住む明治23年頃までのものに関しては、「早くおぢばに常住して御用をつとめよ」という神意が通底している、と言えるのです。この事実を頭に置いておさしづ本文を読むのと、何も知らずに読むのとでは、理解度が大きく変わることは明らかです。

 

おさしづ解読の鍵は、「場」にあり。「場」の解読の鍵は、「人」にあり。まずは興味のある先人の人生をたどり、本人が書いたものや教話を読む。そしてその先人に関わるおさしづを順番に読んでいく。このような人をベースにした読み方こそ、おさしづ拝読の王道だと思うのですが、どうでしょうか。