農作物と私たちの信仰

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先日、親里で行われた田植えに参加しました(写真はそのときのものです)。そのもみ種は、本部で勤められた、はえでづとめで供えられたものです。かんろだいに供えられたもみ種が苗となり、田に植えられていると思うと、感慨深く感じました。毎年のことながら、親里で行われる農事はとても和やかで、心地いいものがあります。

 

今年の4月16日、はえでづとめに参拝した私は、初めてそのお手ふりを目にしました。それまでは、「はえで」という言葉からの勝手なイメージで、下から作物が伸びてくる様子を手で表しているのだと思っていました。ところが、実際の「はえで」のお手は、上からつまんで引き上げるような動作だったのです。私は驚きました。

 

しかしよく考えてみると、神様の視点からすれば当然のことです。人間は目に見えるものしか見えないから、下から伸びているように見える。でも神様は、上から引っ張ってくださっている。をふとのべのみこと様は「立毛の引き出しをはじめ、その他引き出し一切の守護」と教えられるとおり、上から「引き出し」ているのです。

 

『正文遺韻』を読むと、信仰の道すがらを農作(立毛)にたとえたお話があります。

 

信心するは、立毛つくるも同じこと。今、立毛つくるには、種を蒔いても、修理せねば他の草がしこって、訳もわからぬようになり、また、肥をせねば、成人せん。成人せんければ、花も咲かん。実も、のりそうなことはない。

今、話聞いて、「なるほど」と心をとめるのは、これが信心のはじまり。立毛なら、種を蒔くようなものや。だんだんと、話という、聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるは、修理のようなもの。理を聞き分けて、道を尽くすは、これ肥という。肥を置くようなもの。そこで、尽くすだけのこうのうは、天より与えてくださる。立毛なら、実がのったようなものや。 (諸井政一『改訂正文遺韻』p.192。表記を改める)

 

つまり、

「種を蒔く」=話を聞いて「なるほど」と心の目が開かれる体験

「修理」(除草、間引き)=話を聞いた上にも聞き、心に治める

「肥」(肥料)=道につくす、聞いた話を実行する

 

「話」というと、いろんなものが考えられますが、原典のお言葉や、先人が語り伝えた話が挙げられるでしょう。私たちはおやさまのお声を直接耳にはできませんが、書かれたものに教えを求めることができます。

 

日々、教えを求め、「なるほど」と心の目が開かれる体験を積み重ねる(種蒔き)。そして、原典やお話を何度も読ませていただく(修理)。その学びを生活に織り込む努力をする(肥)。神様のお計らいによってこの道に引き寄せられた私たちは、信心の上での「種蒔き」「修理」「肥」を怠らぬよう、通らせていただきたいものです。