「理解」と「体解」

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信仰には、大きく2種類あると思います。

「理解」している信仰と、「体解」している信仰。体解とは深谷忠政先生の造語で、頭で理解している状態にとどまらず、からだ全体で、まるごと分かったという状態を指します。信仰者なら、誰しも教えを「体解」したいと願います。

 

みずからが鮮やかなご守護を頂戴したという人の中には、言葉で説明できなくとも教えを体解している人がいるでしょう。私もそうなりたいのですが、現時点では「理解」のレベルにとどまっているな、というのが正直なところです。

 

劇的な体験によって自分がたすかったという人もいますが、現代は親から信仰を受け継いだ人のほうが多い状況です。「教えが素晴らしいのは分かるけど、初代の人のように情熱的になれない」という方も多いのではないでしょうか。

 

私も、それに悩む一人です。しかしあるとき、当時参加していたおふでさきの勉強会で発見がありました。それは、次のおうたからです。

 

このよふハ一れつハみな月日なり

にんけんハみな月日かしもの (六 120)

せかいぢうこのしんぢつをしりたなら

ごふきごふよくだすものわない (六 121)

 

「かしもの・かりものの理」という真実を知っていれば、豪気強欲を出すものはない、と神様はおっしゃっています。そう、この真実を「知って」いるだけで、我意を押し通したり、欲にまみれたりといったことを回避できる。振り返れば、「かしもの・かりもの」や「八つのほこり」の話がふっと頭に浮かんで、間違った選択を免れたことが何度もありました。

 

おうたは、

 

こゝろさいしんぢつよりもわかりたら

なにもこわみもあふなきもない (六 122)

 

と続きます。心の底から「わかった」ということになれば、「何も怖みも危なきもない」という領域に達するのです。私たちは、普段何気なく聞いている「かしもの・かりもの」の話によって、実はいくつもの災難や間違った選択を逃れているのかもしれません。

 

「体解」は遠くても、「理解」しているだけで頂けるご守護もあるのでしょう。これからも教えをしっかり学び、小さな「理解」を重ねていきたいと思います。