コロナ時代はご守護とともに

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新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの生活は一変しました。振り返ってみると、日本で流行しだした頃は「このパンデミックをどう考えるか」という議論がさかんに行われていたように思います。教内においても、おふでさきやおさしづなどを参考にした悟りや、行事の中止を通して感じたことなど、さまざまな思案がなされていました。

 

私はどうかというと、「コロナ時代をどう生きるか」と銘打った『あらきとうりよう』(昨年8月発行)の中での一節が印象に残りました。

 

「かりもの」のご守護の世界に目を向け感謝する、小さなところから「たすけあい」の行いを積み重ね、陽気づくめの心で生きる。おやさまがお教えくだされた教えの根本にしっかりと目を向け、真実の生き方へと改めていくことが、いまという時旬に求められることではないだろうか。

山澤昭造「かりもの」のご守護の世界に目を向けるとき『あらきとうりよう』280号

 

 

あまたあった議論の中で、これが一番しっくり来ていました。しかし一方で、かりもののご守護に目を向けることが大切だと分かりつつも、なかなか自分の生活に落とし込めていませんでした。頭では理解していても、生活が変わるまでには至っていなかったのです。

 

そんな中、昨年12月某日、ある青年仲間と話をしていたとき、久しぶりに「コロナをどう思案するのか」という話になりました。その頃、世間はワクチンや東京五輪の話で持ち切り。教内でも「どう思案するのか」という議論はほとんど聞かれなくなっていました。

 

彼は、「この一年でいろんなことが当たり前ではないとみんな気付いたはず。ここからさらに進んで、生きていること自体が奇跡の連続であることに思いを致し、それに感謝する生活に改めていかないといけない」と話していました。それを聞いてすぐに思い浮かんだのは、おやさまのご逸話でした。

 

おやさまは、監獄所においでになったときも、朝はいつもの時刻にお目覚めになり、東からのぼる太陽を拝まれた、と伝えられています。おやさまはお側の方に「これをせよ」とおっしゃったわけではありませんが、私は一人の弟子として、こうした行いを真似したいと思ったのです。取りも直さず、それが「教えの根本にしっかりと目を向け、真実の生き方へと改めていくこと」につながるのではないか、と。

 

ということで、いま私は、3つのことを実行しています。

 

  • 朝起きたら、目を開けてくださったご守護にお礼を申し上げる
  • 朝起きたら、太陽を拝む
  • 食事の前に、箸を両手で持ってうやうやしく掲げる

 

これらは本当に小さなことです。しかし、習慣化することで、かりもののご守護に目を向けることができるようになると信じています。私たちに求められているのは、物事を「当たり前」と感じる閾値を下げ、生きていること自体がご守護のたまものだと気づくこと。そして、少しずつでも生活を変えていくことではないか。ワクチンが出回りつつある今こそ、改めて生活を振り返るときだと思います。