破れたセーター

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私は、10年前に買ったセーターを今も愛用しています。5年ほど前、ひじに穴が空いて、母があて布をして修繕してくれました。しかし最近になって、袖口、脇、首元、果ては背中にまで穴が空き、白のワイシャツを下に着ると、白いまだら模様ができるまでになってしまいました。

 

はっぴの下に着ていれば分かりませんが、脱ぐとすぐに分かります。これまでに何度か「セーター穴空いてるよ」と指摘されたことはありましたが、特に気にはしていませんでした。10年も着ていると体に馴染んでいるからか、穴だらけでもついこのセーターを着てしまうのです。

 

ある日のこと。いつか言われたように「セーター穴空いてるよ」と言われました。しかしその日を皮切りに、なんと3日も続けて別の人からも言われたのです。さすがに腹が立ってしまい、「もう捨てよう。よくがんばってくれたじゃないか」と思いました。

 

ちょうどその日、妻に髪を切ってもらう約束をしていました。いつもならナイロン生地の服を着て髪が付かないようにするのですが、ヤケになっていた私はセーターのままイスに座りました。そして終わった後、髪の毛がたくさん付いたセーターを丸めて、「この子は随分がんばったから、もう捨てていいよ」と妻に渡しました。

 

私がシャワーを浴びて出てくると、妻はセーターを差し出し、「コロコロしといて」と言います。この間、セーターに付いた髪の毛を、手で取っていたのです。私はそのとき初めて、自分が冷静さを失っていることに気付きました。

 

初代真柱様はよく、若い青年を呼びつけては、湯のみ茶碗を出して見せたといいます。7つか8つに欠けたものを継ぎ合わせた、おやさまの湯のみ茶碗です。「これが俺の宝や。これが道の宝や。この精神を心としておれば、道はますます栄える。我々は一日ともこの湯のみを忘れることはできない」。

 

8つに割れた茶碗を、自分ならどうするか。おそらく、なんの迷いもなく、新聞紙にくるんで捨てるでしょう。しかし、おやさまは違いました。それを丁寧に継ぎ合わせて、湯のみとしてお使いになっていたのです。

 

私はセーターにコロコロローラーをかけ、クローゼットにしまいました。「この精神を忘れていた、否、そもそも自分の中になかった……」。反省と共に、初代真柱様の言葉がよみがえります。「この精神を心としておれば、道はますます栄える――」。

 

欠けたものを合わせ、破れたものを継ぎ、紙のシワを伸ばす生き方。これこそがおやさまの生き方であり、天理教徒の生き方です。まずは自分が持っているひとつひとつのモノと向き合うことから、世界たすけは始まるのです。