絶賛された卵焼き

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妻から料理の手ほどきを受けている私。最近は卵焼きにはまっていて、朝食やお弁当、そして夜のおつまみにと、巻きに巻きまくっています。

 

ある日、おつまみに卵焼きを作って二人で食べていると、妻が口を開きました。
「水加減がいい。油の量もいい。焼き加減、味付けもいい。素晴らしい卵焼きだね」
絶賛とはこのことです。私はうれしくなりました。
「たくさん練習した甲斐があった。もっとがんばろう」
と内心ほくそ笑む私。人生ではときどき、思いがけず褒められる体験があるものです。

 

しかし次の瞬間、私はあることを思い出しました。

 

それは、おやさまに直接導かれた先人の一人、山本利三郎先生の逸話です。お道が外部からさまざまな干渉を受けていた明治10年頃、先生は他宗教との論争の場で見事な答弁をして、相手を傾聴させたということがありました。得意満面でおやしきへ帰り、おやさまにご報告します。「実に愉快でした。先方もよく納得していました」

 

しかし、それを聞いたおやさまは次の一言。
「神が言わしてやったのや。自分で言うたと思いますか」

 

卵焼きは一例ですが、私は、人前でうまく話せたとき、上手に物事が運んだときなど、得意満面になることがほとんどです。「時間をかけたからできた」「よく調べたから当然だ」などと考え、悦にひたってしまうのです。

 

そうした姿を戒められる「自分で言うたと思いますか」というお言葉には、2つの意味があるのではないかと考えます。

 

1つは、いざというとき、親神様が、私たちの持っている力以上のものを発揮させてくださること。自分ではよく分からないけど、うまく言葉が出てきた、うまくできたということは、日常生活はもとより、スポーツや芸術の分野でもよく聞く話です。皆さんも経験がおありかと思います。

 

もう1つは、身の内に親神様が常に入り込んでくださり、守護してくださっているということです。くにとこたちのみこと様以下、十柱の神様のお働きがなければ、卵焼きを作ることはできないし、言葉を発することもできません。

 

人から褒められるとすぐに舞い上がってしまう私ですが、かしもの・かりものの理を心に治める努力を重ね、「自分ですること、したことはなにもない。すべて親神様が力を貸してくださったのだ」と謙虚に通ることができるよう、精進したいと思います。